歴史のあだ花? 青梅・あきる野で散った、戦国の山城

東京西部の青梅・あきる野。丘陵が織りなす自然豊かなエリアです。
中世から戦国時代にかけ、山城が点在。
そのほとんどは、戦国の乱世で落城・廃城しました。
歴史に翻弄された西多摩の城跡を、訪ねてみませんか?

戦国の世に翻弄された、東京・西多摩の歴史

戦国時代には、東京にも山城があった

青梅・即清寺より、辛垣城方面を望む
青梅・即清寺より、辛垣城方面を望む

東京西部の青梅・あきる野には戦国時代、山城がありました。
その大半は、丘陵や低山に築城。山城ゆえ、見晴らしが利くスポットも多く、ハイキングコースで整備された城跡も多いです。

戦国時代・多摩西部のキーパーソンは、三田氏、大石氏、後北条氏の三家。その概略は…


三田氏
青梅の豪族
戦国時代・1563年に後北条氏に
滅ぼされる

大石氏
八王子・あきる野の豪族
1536年、後北条氏を養子とし
家督を譲る

後北条氏
小田原の豪族
戦国後期、多摩を制圧
後に秀吉が征伐

戦国時代・中期には、三田氏・大石氏の両家が、西多摩を治めていました。
そこへ、関東制圧を狙う小田原・後北条氏が、虎視眈々と狙います。

まずは、養子縁組で大石氏を取り込む、後北条氏。
上の地図は、三田氏(紺色)、大石→後北条氏(えんじ色)の、城の分布。
八王子〜あきる野を領地とし、足がかりを築きます。
三田氏の南に、後北条氏の軍事拠点がずらりと並ぶ構図です。
その後「辛垣の戦い」を仕掛け、三田氏を制圧。

後北条氏第3代・北条氏康
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

西多摩はもちろん、関東一円を支配しました。
もっとも、その天下は長く続かず、30年ほど後、豊臣秀吉の「小田原攻め」で終止符を打ちます。

青梅・あきる野の山城を訪ねる

青梅・勝沼城
〜古刹とともに歩く、西多摩の城跡〜

三田氏は、現在の青梅の豪族。青梅はもちろん、一時は周辺地域も支配しました。
青梅・奥多摩の、広大な山地を領地に持つ三田氏。林業も盛んで、かなりの財力がありました。
武蔵御嶽神社・社殿の建立、塩船観音寺・仁王門の修復、乗願寺・天寧寺の創設…
財力を背景に、神社仏閣の創設、仏像の寄進なども、幅広く手がけました。

その三田氏の居城が、青梅・勝沼城です。
標高の低い丘陵の城で、軍事的要塞というよりも、利便性を優先した「平時の城」でしょうか?
よって、JR青梅線・東青梅駅から徒歩20分程度、気軽に城跡巡りが可能です。

青梅・天寧寺
青梅・天寧寺

勝沼城の麓には、三田氏宗が開祖した天寧寺があります。勝沼城址跡を訪ねる際は、是非立ち寄りましょう。天寧寺の裏の道から、歩いて行けます。

青梅・勝沼城跡

現在の城址跡は、雑木林と雑木林の森。
三田氏が滅亡した後、後北条氏の管理下となり、わずかに残る土塁や空掘は、その名残と言われます。

JR青梅線・東青梅駅から、徒歩20分

天寧寺から勝沼城についての詳細は、梅の花咲く、青梅・天寧寺〜勝沼城 平将門を巡る小旅をどうぞ。

勝沼城跡から北へ下ると、東京でも指折りの菖蒲の名所、吹上しょうぶ公園。直接下る道が不明瞭の場合、南側の車道へ出て大回りするほうが安全です。

勝沼城の最寄り駅、JR東青梅駅前の本格カレー店。小さな店ですが抜群に美味いです!

あきる野・戸倉城
〜展望抜群の隠居の山城〜

あきる野・戸倉城山
戸倉城山からの展望

戸倉城は小宮氏(現あきる野市・秋川付近の豪族)が築城。戦国時代には後北条氏の支配下となります。

南北朝時代、上杉家の家臣として、二宮(現あきる野市)を拠点とした大石氏。
1400年代後半に八王子・高月城、滝山城を築城し、付近を治めます。

その後、後北条氏の躍進で、上杉家が関東から撤退。
後ろ盾のない大石氏は、北条氏照を養子に迎え入れます。
城主の大石定久は、戸倉城に隠居することに。
軍事的に、さして、重要な城でなかったのでしょうか?

あきる野・戸倉城山の、夜景

山頂付近には、郭や堀などの貴重な遺構が残りますが…
城マニアならともかく、最大の魅力はその展望でしょうか?
日の出や夜景も見事な城山、隠居するなら最適なロケーションです。

後北条氏が豊臣秀吉に征伐された後、家督は大石氏に戻ります。
その上、子孫は徳川家の家臣となった者も。結果的に、世渡り上手な家系ですね。

戸倉城山はハイキングコースが整備され、麓から往復1時間30分ほど。
急な坂道もあるので、トレッキングシューズで登ることをオススメします。

JR五日市線・武蔵五日市駅より、西東京バス・秋川渓谷方面行バスにて「戸倉」バス停下車、登山道を徒歩50分

コースの詳細は、初日の出・夜景の好展望台、かつて山城の、戸倉城山をご覧ください。

戸倉城山付近には、サンドイッチの美味しいPOUNDなど、古民家レストランが点在しています!

青梅・辛垣城
〜三田氏終焉の悲劇の山城〜

青梅・辛垣城址跡
辛垣城跡

青梅丘陵・標高458mの辛垣城。
かつて、壮絶な戦いの末落城した、三田氏終焉の地です。

1560年前後、八王子・あきる野を拠点とする大石氏が後北条氏の軍門へ。大石家は、後北条氏の子息を養子と家督を譲ります。
後北条氏の領地が、目と鼻の先となった三田氏… より強固なディフェンスが必要となります。
こうして辛垣城が、早急に整備されます。

青梅・軍畑大橋
軍畑大橋

三田氏が目を付けたのは、勝沼城から4kmほど西の辛垣山。
後北条氏が辛垣山攻めるには、多摩川を渡る必要があります。
辛垣山は比較的渡りやすい、軍畑を監視できる山。標高457mと攻めにくいのも利点です。
平地との標高差は200m以上、まさに要塞の趣きです。

勝沼城とは山の尾根で繋がります。物資の輸送などに利用していたのでしょう。
また、矢倉台など、尾根の要所に監視所を設けました。

青梅・愛宕神社から、辛垣城を望む
青梅・愛宕神社から、辛垣城を望む

1563年、後北条氏は辛垣城へ侵攻。両氏の領地の分ける梅ヶ谷峠を越え、多摩川・軍畑を渡り突撃した、といわれます。
激戦の末落城し、三田氏は滅びます。

1951年に発見された古文書「谷合氏見聞録では…
城主の三田綱秀が落城の際、詠んだ

「からかいの南の山の玉手箱、あけてくやしきわが身なりけり」

と紹介されています。
もっとも「谷合氏見聞録は、辛垣の戦いから数十年後に記された文書。
果たして、戦禍の最中、雅びな歌を詠む余裕があったのか?
どこまでが史実なのか、興味深いところです。

辛垣城付近は、1920年代より、石灰の採掘が行われ、遺構ははっきりしていません。
また、青梅丘陵ハイキングコース上で、登山の装備が必要です。

JR青梅線・二俣尾駅から、登山道を経て徒歩1時間10分

辛垣城への登山道の詳細は二俣尾駅からか辛垣城へ、野生ラン咲く、初夏の青梅丘陵をご覧下さい。

辛垣城最寄り駅近くのかわしまは、天ぷらも美味い蕎麦店です。

インフォーション

参考文献

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