四つの顔を持った青梅街道、江戸・二百余年の歴史をたどる

新宿から、青梅を経て山梨へ至る、青梅街道。
江戸時代、石灰を運ぶために造られ、時代とともに、その役割は変貌します。
道と人の歩みを、探ってみました。

産業道路からシルクロードへ、青梅街道の遍歴を探る

江戸城建設・巨大プロジェクト

青梅街道は、東京・新宿を起点に、中野・田無・小平を経由し、青梅へ至る道。
江戸時代中期には、青梅から先、奥多摩・大菩薩峠を経て、山梨県・塩山(甲州市)、甲府へ通ずる、甲州街道の裏街道となります。

皇居(元江戸城)内堀

青梅街道の開通は、1606年。徳川家康が、江戸幕府を開幕してから3年後です。
開幕まもないこの時期に、なぜ、急いで造られたのでしょうか?
実は、江戸城の建築が、大きく関わっています。

江戸城は、室町時代に太田道灌が築城。家康が天下統一後、精力的に拡張します。
江戸城の高さは約58m。当時、日本で一番高い建築物です。マンションなら大体18階、家康は超高層ビルに住み、権力を誇示していたのですね。
広さも破格。外濠も含めると、敷地は、東京ドーム450個分くらい。端から端まで歩くのに、1時間以上かかる広さです!

当然、建築資材も膨大な、巨大プロジェクト。城の外壁に使う漆喰も、大量に必要です。
漆喰は、耐火性と耐水性に優れています。木造建築の欠点を補う大切な資材。城の外壁ならば、ある意味、軍事物資でもあります。
漆喰の原料は、石灰。江戸幕府は、青梅市・成木の石灰石に目を付けます。

青梅街道はいかにして、選ばれたのか?

成木は、江戸から50km程度西の山間の村。問題は、どのようにして運ぶか、です。

電子地形図(国土地理院)を加工して作成

成木は、現在、東京・青梅市ですが、入間川水系。青梅といえば、御岳渓谷など多摩川のイメージですが、成木は地形的に、むしろ埼玉に近いエリアなのです。

江戸時代の輸送手段は、陸路か水運です。
陸路を選ぶならば、通常、川沿いに道を通します。川沿いならば、峠超えが無く楽でしょう。
とはいえ、成木から江戸までは、川越を経由し、入間川沿い・約75kmの道のり。かなり、大回りをすることとなります。

峠超えはあるものの、多摩川流域から、平らな武蔵野台地(石神井川・神田川流域)に、ほぼ直線の道を引けば、約55kmほどで済みます。こうして造られたのが青梅街道です。
峠の標高が180mほどと、さほど高くなかったのも、選定理由でしょうか。
かくして、青梅街道は、石灰輸送の産業道路として、発展します。

当然、川での水運も検討したでしょうが…
後年、成木の石灰輸送は、水運に切り替えられますが、川越の河岸まで陸路で運んでいました。おそらく、河岸の適地が、成木にはなかったのでしょう。

国土交通省Webサイトより引用、加工

これは筆者の推測ですが…
当時、入間川は荒川と合流せず、東京湾に注いでいました。荒川を瀬替え、入間川を支流とした「荒川の西遷」は1629年。青梅街道開通の20年以上後です。当時は、水量も少なく、安定した水運には適していなかったとのかと。
ちなみに「荒川の西遷」は、江戸の治水と、秩父からの木材輸送のため造られました。江戸時代のインフラ整備は、随分大胆です。

価格競争に破れた、成木の石灰

成木の集落

青梅街道開通当初は、江戸城の重要物資、成木の石灰は、優遇されていました。街道を通行する際は、大名行列に近い待遇を受けていたくらい…

ところが、1700年代に、強力なライバルが出現。牡蠣の殻を焼き粉末とした代用品が、深川で生産されます。
江戸の街で造るわけで、コスト的にかないません。
また、現在の群馬や栃木などでも石灰石が採掘され、利根川で運ばれ始めました。大量輸送が可能な水運は、輸送コストに優れています。
水運が発達し、河岸問屋が充実したのも大きいでしょう。ロジスティクスは水運の時代、なのですね。

成木も、川越の河岸から水運を使うようになりましたが… 採掘地からの陸上輸送も長く、価格競争力を失いました。
やがて、戦略物資だった石灰も、自由価格へと移行します。江戸時代は、結構、市場経済・資本主義に近い考え方だったのです。

甲州裏街道の、訳あり宿場町

「数馬の切り通し」付近の多摩川

成木の石灰石が衰退する頃、青梅の西、氷川(現在の奥多摩町)方面へ向かう難路に、「数馬の切り通し」が開通。青梅街道は、更に西へと延びます。
標高1900m超の大菩薩峠を、超えなければなりませんが、甲州へと道が続きます。

すでに甲州街道が通じているものの、小仏の関所があります。また、日野では多摩川の渡しもあります。
体力的にはキツいけれど、「訳あり」の人を含め、甲州裏街道として、利用されました。

青梅は宿場町として、発展します。最盛期には、1.5kmほどの街道に420軒の宿があったとか。道の両側に宿があるとすれば、単純計算で7m間隔。
つまり、小さな宿がたくさんあった、ということでしょう。まあ、副業の民宿的な感じ、なんでしょうかね。

筆者の推測ですが、青梅街道はいわば裏街道。花の東海道はもちろん、甲州街道などに比べ、大名行列もなく、大きな本陣などは必要ない。
むしろ、「訳あり」の旅人が多く、安宿のニーズが大きかったのでしょう。

御嶽神社ツアーの参拝道兼、観光道路

「入り鉄砲・出女」で、遠方への旅行も何かと制限が多かった、江戸時代。男性でも、幕府発行の通行手形がないと、結構、関所で面倒だったとか。
そのような中、比較的、大目に見てもらえるのが、「お伊勢参り」でした。

江戸時代、お伊勢参りが大流行。年間、300万人とも500万人ともいわれる参拝者がいました。
現在の5分の1程度の人口で、その集客力、今ならば、ディズニーリゾートくらいの人気スポット?

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」
Author:Utagawa Hiroshige, Public domain, via Wikimedia Commons

建前は「お参り」ですが、8割方、物見遊山なレジャー。浮世絵を見ても、皆さんウキウキしています(笑)
突然、奉公人が前触れもなく、お伊勢参りに行ってしまうことも、多かったとか。長期無断欠勤ですね。
でも、主人は、奉公人が無事帰ってきたら、内心はともかく
「信心深い善行、褒めて進ぜよう」
などと、称えるのが習わし。叱ったりしたら、器量の狭いやつ、となるからです。
信仰という建前の、まわりに気兼ねのないレジャー、お伊勢参りが大人気なのも、頷けます。

伊勢神宮には、御師と呼ばれる、信仰の広布する人々がいました。特に江戸時代には、日本各地をまわり、参拝の勧誘に勤しみます。神札や暦なども配ったり。まるで、生命保険の人が、カレンダーを配るみたいなイメージですね。

また、「講」と呼ばれる、旅行貯金プランも導入。集落の人たちが、お金を出し合い、持ち回りでお伊勢参りする、共済制度でもあります。

武蔵御嶽神社

話を、青梅街道に戻すと。
青梅街道にほど近くに、青梅・御嶽神社があります。江戸時代中期には街道が整備され、参拝しやすくなりました。
比較的近い、青梅に宿があるのも、好都合でした。青梅で泊まれば、翌日は山頂の宿坊へ、無理なく登れます。

御嶽神社も、伊勢と同じく、御師と講で信仰を広めました。
おいぬ様(日本オオカミ)を祀る神社、鹿などから田畑を守る神として、狼信仰の強い農村を中心に布教活動します。

御嶽神社の、おいぬ様

また、山岳信仰の側面もある御嶽の場合、御師が山での世話役です。安心して参拝するための、計画からガイドまで、一手に引き受けた御師。信頼のツアーコンダクター、といったところでしょうか。

さて、御嶽詣も、物見遊山を兼ねた参拝だったのでしょうか?
1800年代に発行された、御嶽菅笠(みたけすげがさ)を見てみましょう。
御嶽菅笠は、木版画で描かれた、当時の旅行ガイド。作者は、御嶽神社の神官、いわば、公式ガイドブックなのです。その復刻版が、御嶽神社より発刊されています。

青梅街道を辿って、御嶽神社までの道中を解説していますが… 茶屋や宿の紹介もさることながら、巻末に「近くのオススメスポット」も載っています。
「小河内の湯 六里」(現在の奥多摩町・鶴の湯・24km)なども紹介されて、これは物見遊山でしょう。往復50km近く歩いて、温泉を楽しむというのも凄いですが…

まあ、温泉くらいは、せっかくの旅、寄り道も悪くありませんが。
本文の内藤新宿(現在の東京・新宿)の説明で
「遊女の揚屋茶見世の数々」
と記されています。

揚屋とは、いわゆる遊郭のこと。
サラリと書かれた内容を、目ざとく見つけ、浮足立った参拝者も多かったのでは?公式ガイドブックによく載せたな、という気もします。
「るるぶ」に、歌舞伎町の怪しげな店が載ってしまったイメージで、中々のサービス精神です。

お伊勢参りと同じく、御嶽詣も、庶民の「はれの日」の楽しみだったのでしょう。特に貧しい農村の参拝者にとって、一世一代の旅行だったのかもしれませんね。

御師と講というシステムで、安全に参拝観光旅行が楽しめるようになった、江戸時代中期。青梅街道は、参拝道でもあり、観光道路でもあったのです。

ユニクロ的、「青梅の市」のビジネスモデル

青梅宿・米店
現在の青梅宿

宿場町として発展した、青梅宿ですが…
1700年代後半から、特産品の青梅縞を売る市が、栄え始めます。

青梅縞とは、経(たて)糸に絹、緯(よこ)糸に木綿を使用する、ハイブリッドな織物。
江戸時代、庶民は絹生地の着物を、規制されていました。いわゆる、奢侈禁止令です。
緯糸を木綿にすればOK、と「法律の抜け道」を利用したのが、青梅縞なのでしょう。
比較的リーズナブルで高品質な「第三のビール」的・青梅縞は、庶民の間で、大人気となります。

この人気に目を付けたのは、江戸に店を構える、越後屋。三越の前身の呉服店です。
御用聞きから店頭販売へ、ツケ払いから現金払いへと、当時の商習慣を打ち破った、流通業界の風雲児。武家屋敷から、庶民相手にシフトした商売で、成功を収めます。

庶民がメインターゲットならば、青梅縞は格好の商材だったのでしょう。専門の買宿(契約仕入れ業者)を青梅に置き、買い付けます。
産地と販売店をダイレクトに結び、スムーズな買い付けをするため、おそらくは、柄や仕様なども、生産者にアドバイスしていたでしょう。

これは、ユニクロ等の、製造小売業(SPA)に近い発想ですね。青梅縞もフリースも、新素材を上手く活かしたアイテムですし。
ユニクロと同じビジネスモデルを、200年ほど前に構築していた、といっても過言ではありませんね。

石灰の産業道路から、甲州裏街道、御嶽詣の参拝道兼、観光道路、そして、青梅縞のシルクロード。江戸時代・約250年、時代の要請で変化し続けた青梅街道は、今も健在です。

インフォメーション

参考文献

  • 青梅市史 編集・青梅市市編さん委員会 発行・東京都青梅市
  • 青梅街道 江戸繁栄をささえた道 著者・山本和加子 発行・聚海書林
  • 御嶽菅笠 著者・齋藤義彦 発行・武蔵御嶽神社社務所
  • 青梅市の民俗 編集・青梅市教育委員会 発行・青梅市教育委員会
  • 近世日本における石灰の生産流通構造 著者・川勝 守生 発行・山川出版社

青梅街道沿線のオススメスポット